特別編:東西文化の交易点ジョージアに息づく、知られざる入浴文化アバノ(後編)
さて、前回に引き続き、今回もフィンランドサウナのお話を小休止して、私Suomiのおかんが5月にフィールドワークに赴いた、ジョージアのアバノと呼ばれる入浴文化のリポート後編をお届けします。前回は、首都トビリシの中心にある温泉街を紹介し、ジョージアの入浴文化の要は、日本やかつてのローマ風呂などと同じく「熱いお湯を張った湯船に浸かる」行為であることをご説明しました。
けれど、ジョージアの地理的事情をよくよく考えれば、これって少し不思議に思われませんか。例えば北に横たわる(そしてかつてはソ連の一国として取り込まれていた)ロシアの伝統的な入浴施設といえばもっぱら、フィンランドサウナに非常によく似た蒸し風呂のバニャ。いっぽう、南に位置するトルコやトビリシの浴場建築に影響を与えたとされるイランなど、イスラム圏で普及しているのも、浴槽から昇る蒸気を浴びて汗を流す、やはり蒸し風呂スタイルのハマム。入浴といえば蒸気を浴びるのが定番!の列強国に囲まれながらも、どうしてジョージアでは湯に浸かるアバノという独特の文化が今なお受け継がれているのでしょうか。
その疑問が、短い滞在中にはっきり解決したわけではありませんでしたが(前回も泣き言を言いましたが一般のジョージア人が得てして英語が不得手なのも大きな障壁となり…)、それでも郊外の旅を続けるにつれて、「きっとこれが影響を与えたのかな」という歴史的要因、そして風土的要因が、ぼんやりと見えてきました。後編はその2つの要因から、アバノのルーツと存在意義に切り込んでみたいと思います。
ジョージアに浴槽入浴文化を持ち込んだのは、ローマ帝国の軍人たちだった!?
首都トビリシから北西に50キロほど向かったところに、ドザリシ(Dzalisi)という小さな村があります。ここは良質な牛肉を生産する街として有名らしく、私が足を運んだ日曜日には村の中心で大きなバザールが開かれていて、なんと生きた牛がつぎつぎに軒先の処刑台のような金属台にかつがれ、人々の目の前で屠殺されては、血で地面が真っ赤に染まるそばで食肉が解体されて売られていく…という強烈な光景をさっそく目にしました。
そのドザリシ村のはずれに、簡素なフェンスで囲われている、ぱっと見ではただの野原にしか見えない土地があります。そのなかで保存されているのは、なんとこの地がローマ帝国の保護下になって間もないころに、ローマ軍の将官が築かせたという巨大な公衆浴場の遺跡でした。現ジョージアの中東部には、もともとイベリア王国というひとつの国家が存在していましたが、紀元前1世紀に、東へと押し寄せるローマ帝国の勢力に飲み込まれ、支配下に移ります。この浴場の建設年代ははっきりしていませんが、ローマ帝国支配が始まってまもなく建設され、少なくとも2000年がたっていると考えられているそうです。
初夏の草花が咲き乱れる野原には、なるほど確かに、古代ローマの自宅や公衆浴場で多用されていた当時の画期的なセントラルヒーティングシステム、ハイポコーストの跡がはっきりと見て取れる遺跡が。さらにその先には、大浴場の巨大な浴槽が見事にその原型を留めています。
野外遺跡の奥には屋根の下でより丁寧に保存されている遺跡もあり、そこでは、古代ローマの公衆浴場の各浴室のなかでももっとも豪華絢爛だったというテピダリウム(微温浴室)の床のモザイク装飾が、色あせながらも見事に往時の姿を留めていました。
古代ローマの公衆浴場は、貧富の差に関係なく誰もが自由に利用できた貴重な公共施設で、そのアイデアと様式はローマ帝国内で隆盛しただけでなく、後に勢力を拡大させていったイスラム帝国でも引き継がれ、ハマム文化の原型になったと言われています。しかし5世紀を過ぎたころから、戦争による破壊や、キリスト教の禁欲主義に基づく価値観の変化から、世界各地でローマ浴場施設、そして「湯船に浸かる」という文化は徐々に廃れていきます。11世紀ごろ、十字軍の遠征の際にイスラム圏のハマム文化に触れて、ヨーロッパでもにわかに入浴文化(ただしハマムのような蒸し風呂スタイルが中心)が再興したとも言われていますが、結局、ふしだらな使われ方ばかりされてしまう公衆浴場は、宗教観と相容れず後に完全な禁止令まで出てしまうほど。 では、そのころジョージアではどうだったのか…
ジョージアにおける中世の時代やそれ以前の入浴事情は、あまり研究も進んでおらずはっきりとした資料は残っていないようです。ただし国内各地には、建設年の特定は難しいにしても、中世(10〜14世紀)、中世後期(14〜15世紀頃)、あるいは17世紀以降に作られたとされる浴槽を持った浴場や王族や貴族の個人浴室の遺跡がいくつも見つかっており、少なくとも入浴(入湯)という文化がどこかで途絶えていたわけではなかったことがうかがえます。例えば、トビリシから北東に100キロほどの場所にあるテラヴィという街には、18世紀にジョージア中東部の地を治めていた王様エレクレ2世の要塞(バトニスツィヘ)が残っているのですが、その敷地内にも、彼の使っていたという浴室跡がしっかり残っていました。
同じキリスト教国でありながら、西欧の国々で浴場文化が風俗文化と結びついてはモラルやキリスト教義に触れ、あっけなく禁じられて影を潜めていったのに対し、ジョージアではほそぼそと入浴文化が続いていた。これには、ひょっとしたらローマ帝国衰退後、ジョージアの国土がもともと地理的にもかなり距離のあった西欧との繋がりから切り離され、代わってオスマン帝国やサファーヴィー朝などイスラム勢力下に取り込まれていったことが影響を与えているのかもしれません。少なくともイスラム圏のハマムは、西洋のように安易にふしだらな場所に成り下がっていくことなく、男女の区分を厳格にしながら、中世以降も根強く残っていった入浴文化だったからです。
前編で紹介したように、近世以降のジョージアの公衆浴場が女性たちにとって重要な美と社交と情報収集の場であった…というのも、まさにもとはハマムで見られる現象でした。イスラム圏では女性たちはさらに社会的立場が低く抑圧された生活を送っていたので、世の女性がリフレッシュとともに日々の抑圧から開放される場としてハマムは機能していた、といっても過言ではありません。
このように、ローマ帝国時代の大衆浴場文化到来に始まり、その後の歴史的事情から入湯文化が引き継がれるに至った(と推測される)ジョージアには、もうひとつ、彼らがいわゆる蒸気でなくて「お湯に浸かる」ことに意味がある理由が存在していました。それは…
国民がパーフェクト・ウォーターと賞賛する、
ジョージアの雄大な自然が生み出す豊富で良質な水のパワー
そもそもなぜ2000年前に、ローマ帝国の将官があの地に大規模な公衆浴場を作らせたのか。それは背後の山から流れてくる天然水の水質や水量が素晴らしく、ぜひこの水を引いてきて浴場を作りたいと言い出したからなのだそう(遺跡の管理人談)。確かに、万年雪も見られる雄大な高山 に囲まれたジョージアでは、特に高地のほうに行くと、体を清めるにも飲料にも適したミネラル豊富で清らかな水がこんこんと湧き続けています。街なかでも、水飲み場や、人々が大きなボトルをもってわざわざ汲みに来ているようなスポットをあちこちで見かけました。
ジョージア人は、口をそろえて「ジョージアの水はパーフェクト・ウォーターだよ」と自慢します。有名なジョージアワインも、この地でたくさん育てられている葡萄の質や技術だけでなく、水の良質さが決め手なのだと言います。首都トビリシの水道水は軟水ではないのですが、首都に住む人たちは日々当たり前に水道水をそのまま飲んでいるし、より自然豊かな地域に行くとさらに自然水への信頼が厚いことを、旅していて強く感じました(非常に早期からキリスト教を国教化していた国なので、いわゆる自然信仰のような事例は見聞きしませんでしたが)。
トビリシの温泉街のように硫黄泉が出る場所も国内に点在しており、天然温泉はもちろん、良質な湧き水や地下水が潤沢に引ける場所はもれなく昔から権力者らの目に止まり、疲労回復とリラクゼーションを目的とした浴場が作られていったのだと言います。その際には、蒸気を浴びるよりも、水やお湯そのものにとっぷりと身を沈めることのほうが、その自慢の水を満喫するという点で極上の入浴方法だったのかもしれません。だとすれば、ジョージア人にとってのアバノという文化はやはり、自分たちが愛し誇りに思う「水」を浴びる/浸かる、という点にその本質があると言えるのではないでしょうか。
いっぽうで、公衆浴場としてのアバノの文化は、日本の銭湯やフィンランドの公衆サウナ同様、どうやら思った以上に各地で消失しつつあるということもまた実感しました。事前情報でアバノがあると聞いていた街でも、いざ行ってみると最後の一件がすでにここ数年内に潰れ、跡地にホテルが立っていた、ということが2度もありました。自宅に浴槽があるかどうかは家庭次第のようですが、ともかく今の御時世みんな自宅のシャワーで済ませがちなこと、また特に若い人は硫黄の臭いが好きじゃないからと温泉街に近づかない人も少なくない、と聞きました。いずれトビリシの温泉街も観光客だけに支えられる場所になってしまい、地方のアバノは廃れきってしまうのか…。
その遠い国の時代の成り行きに、私がなんの影響を与えられるわけでもないけれど、せめて、日本やフィンランドだけでじゃなく、世界にはまだまだこんな素敵な素っ裸入浴文化あるんだよ、ということを読者の皆さまが知ってへえぇと少しだけ親近感を感じてくだされば、嬉しいなと思います。